ついてくる

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「っしゃァーせェー」
 発音しにくいカタカナが並ぶ名札をつけた店員は、入店を知らせる電子音に釣られて顔を上げた。庶民に親しまれる安価な居酒屋の、本日四組目の客である。
 今まさに暖簾を潜ってきたのは若い女だった。ダウンベストに運動靴という活動的な格好に、キャップを目深に被り、はみ出た前髪の隙間から化粧気の薄い、鋭い目が覗いている。おまけにこれから泊まりがけの旅行にでも行くつもりなのかと思うほど大きなリュックサックを背負っているので、店員は故郷でたまに見かける、田舎から出てきたやり手の行商人を思い出していた。
 店員が機械的に人数を尋ねると、女は棒立ちのまま、「ひとり。でも、後から連れが来るかもしれないから、二人席がいい」と、ぼそりと答える。幸い、この店のピークは一時間以上先で、まだ席数に余裕はある。店員は、彼女の大きくない背中をすっぽり覆うリュックサックを置く余裕がある半開きのボックス席に女を通した。
 女はどかりとクッション性がないソファー席に腰を下ろすと、リュックサックをぐいぐいと奥に押し込む。そして、ベストも脱がずにタッチパネルでメニューを物色し始めた。
 すると、空いた向かいの席に同じくらいの歳の若い男がすっと入り込んだ。女は男に目もくれず、ラミネート加工されたメニューを少し男の方に押しやった。
 よれ気味の長袖Tシャツ一枚で、癖っ毛をふわふわと空中に伸ばしたい放題にした男は、何かに気づいたようで、つんと唇を尖らせた。
「チカちゃん、足」
「うるさい」
 チカと呼ばれた女はばっと、膝を閉じる。しかし、それ以上気にした様子でもなく、メニューに熱中している。
「それよか、ヨタは何がいい?」
「うーん、じゃあチカちゃんのおすすめ」
 向かいに入り込んだ男、ヨタはメニューを覗く様子もなく、よっこいしょとソファーに腰を沈める。「またそれ?」という非難がましい目もどこ吹く風の男に、チカはふんと鼻を鳴らしてタッチパネルを叩く作業に戻っていった。
 注文が終わり、店員がお通しとグラスを二つ、机の真ん中に置くと、チカはようやくダウンベストを脱いだ。ヨタは箸を取ることもなく、もくもくとキムチを口に運ぶ向かいの女を覗き込むように頬杖をついた。
「で、今日の収穫はどうだった?」
「てんでだめ。何もなし」
「今日はなんだっけ、グーグルストリートビューで、人がいないのにモザイクがかかってる場所、確認しにいったんでしょ」
「そう。センパイから借りたカメラも持ってったけど、大した反応はなかった。何回か、確かに何もないところで顔認証が作動してたけど、再現性はなかった、と思う」
 男性スタッフが配膳したわさびがたっぷり乗った山芋の千切りをシャクシャクとひとりでやっつけながら、透明なグラスを傾けるチカを眺めつつ、ヨタはくたっと首を横に倒した。
「それじゃあ、ユーレイはいなかった?」
「わかんない。幽霊がいたとしても、判別はつかなかった」
 そっかあ、とヨタは困ったように笑った。
 チカとヨタは一年前まで、恋人だった。
 だった、と言うとチカは絶対に怒るが、ヨタからすれば、そう説明する他ないと思っている。
 チカは大学の学部生、ヨタは院生で、ゆるく天文を愛する文化系サークルで出会った。新歓後、はじめての観測会のあとの飲み会で、
「空飛ぶ円盤の呼び方は今まで通りUFO(未確認飛行物体)でいいじゃん。UAP(未確認飛行現象)なんてロマンがない」
と酒の勢いに任せて管を巻く先輩に、
「でも、UFOが物体かどうかは確認されてないですよね。物体と名づけたのは昔の人の思い込みなんだから、現象と名前を付け直す方が正確だと思いますケド」
などと、もぐもぐポテトを頬張りながら、場の体感温度を下げる発言を繰り返していた新入生の女の子がチカだった。その鋭い眼差しのリスのような姿があまりにも面白かったので、先輩として飲み会にだけ顔を出すつもりでいたヨタの方から声をかけた。
 そこを契機にヨタは定期的にチカを呼び出しては芋を食わせ、チカも断ることなく芋を食うという期間を挟み、ふたりはその関係を恋人と呼ぶことにした。
 そこから、半年後。二人の関係は人間と幽霊になっていた。
 ヨタは体を失い、幽霊になってもまだ、チカのそばにいた。幽霊になった経緯は誰も全貌を説明できないので置いておくとして、重要なのはそこから半年間、チカが暇さえあれば幽霊を探している、ということだ。
 ヨタが一度、何故そんなことを始めたのか尋ねると、チカはこともなげにこう答えた。
「だって、幽霊見たことないから」
「俺が見えてるじゃん」
「ヨタが幽霊なのか、狂った私が生み出した幻覚なのか、私には区別がつかないから」
「ええー……」
 苦笑いを浮かべつつ、芋をもぐもぐと頬張るついでに先輩を正論で叩きのめしていた時と一切変わらないチカの言葉を、ヨタは否定できなかった。本当のことを言えば、怪しげな場所の噂を聞きつけては、カメラや温度計などの計測機器をあれこれと持ち込んでその場所に設置し、じっとその挙動を見つめるなんて、年頃の娘らしからぬ昏い趣味はやめさせた方がいいような気もするが、幽霊になってからぼんやりしっぱなしのヨタの頭からは、何かと理屈っぽいチカを説得しうる材料は浮かんでこない。
 そんなわけで今日も、チカは過ぎ去ろうとしている秋の気配に見向きもせず、方々から借りてきたという機材を大きなリュックサックに詰めて、世界的なIT企業のカメラと画像処理AIが幽霊を捉えたと噂の都内霊園を練り歩いてきたのである。

「おい、今、ユーレイの話したか?」
 突如、ヨタの向こうからにゅっとほそ長い顔が覗いた。
 隣のボックス席に座っている、中年の男性だった。薄く髪がかかった額から顎までが妙に長い、全体的にありふれていて、印象に残りにくい風貌の男は、すっかり赤くなった頬にとろんと座った目でチカを見るとへらっと口元をゆるめた。
「なあ、今、ユーレイの話してただろ? 聞こえてたんらぜ」
 いつから飲んでいたのか、すでに呂律が怪しい。男は目の前にいるヨタを気にもとめず、斜めに座り直して自身の席から上半身を乗り出し、チカの方に体を向けた。よれたYシャツとサイズが合っていないグレーのジャケットが、男をより貧相に見せている。ヨタは、男が自分の存在に気づいていないであろうことをいいことに、露骨に顔をしかめた。
「チカちゃん、店員さん呼んだほうが」
「おじょうちゃん、お化けが好きなら、おれがとっておきの話してやるよ」
 男の言葉に、チカの箸が止まった。ヨタはあちゃあと大袈裟に首を落とす。チカのスイッチが入ってしまった。
 チカは透明なグラスにひとつ口をつけると、
「おじさん、続けて」
と居住まいを正した。

***

 三ヶ月前、残暑厳しいある夜のこと。
 男は妙な夢を見た。
 夢の中で、男は地元に残っている唯一の友人と一緒にいた。昔のように楽しく話しながら、男は友人がもうすぐ死ぬことを何故か確信していた。それが悲しくて、男はいつまでもこの時間が続いてほしくて、会話を引き伸ばしていた。
 すると、友人は男の心情を察してか、男に「自分を殺してほしい」と言い出した。男は嬉しいやら、悲しいやら、それでも友人の望みを叶えてやりたいと強く願ったという。
 男は友人に、木の実をひとつ手渡した。男は、その木の実を食べれば楽に死ねるということが分かっていた。友人は男に礼を述べ、ぱくんとそれを一飲みにし、その場に横たわった。
 やがて動かなくなった友人を背負って、男は子供の頃に遊び場にしていた山に向かった。いくらか歩いて、藪の中にちょうどいい窪みを見つけた。男はその窪みに友人を寝かせ、温かい毛布をかけてやるように土を被せた。そうして、友人の姿が見えなくなったことを確認してから、ふらふらと眼下の人里に向かって歩き出した。
 そこから場面が飛んで、細く真っ直ぐな田んぼの畦道を男はよちよちと歩いていた。ふと振り返って山を仰いだ。かつて友人と遊び場にしていた山が、懐かしい姿のまま、そびえていた。そこではじめて、ああ、ちゃんとできてよかった、と男は胸を撫で下ろした。
 そこで目が覚めた。
 おかしな夢を見たものだと男はぼんやりとした頭のまま、枕元のスマートフォンを手繰り寄せ、普段はすっかり忘れているSNSを開く。いくつか新着の投稿をスクロールした先に、夢で会った友人の投稿を見つけた。それがあまりにもくだらない内容だったので、男はふんと鼻をひとつ鳴らし、罪悪感と寝汗を流しに、男はシャワー室に向かった。
 それから一週間ほどしてのことだった。
 賑やかしにつけたテレビを放っておいて、男は今日の仕事の愚痴を吐き出そうと、自分の非公開SNSを開いた。仕事帰りにコンビニで買った不味い缶チューハイを啜りながら、言葉を選ばず書き込んで、そのまま特に意味もなく自分の投稿を遡る。すると、ひとつ前の投稿にこんな言葉があった。
 人んちの庭に埋めちまったんだが、悪かったかもな。
 誰に聞かせるわけでもなく、こぼれ落ちただけの呟き。男の投稿は大体いつもそうだった。男はぼんやりし始めた頭のまま惰性でスクロールする。
 あそこのラーメン屋、店員最悪。二度といかねえ。
 電池。マスク。ティッシュ。
 山道に埋めたら、野犬に掘り返されそう。
 眠い。
 お腹すいた。
 仕事できねえのに偉そうにしやがって。くそが。
 昼680円。
 他愛のない日常のメモとも愚痴ともつかない投稿の先に、珍しく数行書き込んだ投稿があった。
 変な夢見た。夢の中でも山の上まで死体担いでって埋めたら疲れるんだな。夢の中まで疲れることするとか、俺もご苦労さんw
 この投稿に、男は違和感を覚えた。
 あの夢の話であることはわかる。一週間くらい前に見た、友人を殺して埋めるという、大人になってからなかなか見ることがなかった長い夢だ。あまりにも珍しいから、日々の娯楽の代わりにあれから何度も思い返していたのだが、しかし。
 男は違和感の正体を言葉にするために、缶チューハイで舌を湿らせる。
 あの夢で死体を埋めたのは、山の麓の民家の裏ではなかったか。
 手早くスクロールすると、今朝の投稿には「庭」とある。
 そう、これが正しいように思う。夢の細部はとっくにあやふやになっていたが、核の部分を間違えるとは思えない。
 男は妙に耳の後ろがざわつく心地がして、スクロールを動かす。三日前の投稿では、「山道」とある。山道といえば、書いて字の通り、山の中をいく道だろう。民家の近くの道を指すとは思えない。そして、先ほどの一週間前の投稿には、はっきりと「山の上」と書いてある。
 男はもう一度、缶チューハイを煽った。じんわりとした柑橘系の苦味が喉を通りすぎていく。
 あの夢はどんな夢だっただろう。鈍い頭で男は一週間前の記憶を順に辿る。そうしてしばらく考えこんで、眼下に人里を見た気がする、という朧げな記憶にたどり着いた。ならば一週間前の記述の方が正しい、と考えるしかないのだろう。
 何なんだろう、これは。
 子供の頃、どんなに愉快な夢でも時間が経つほど劣化して覚えていられなっていくのをひどく残念に思った経験はある。しかし、今回のように、ひとつの夢の中身をこんな風にまるごと覚え違いしていたのは初めてだった。自分でも気づかぬうちに、同じ筋書きで場所だけ違う夢を繰り返し見ていて、それを同じ夢だと思い込んでしまったのだろうか。それも腑に落ちない。
 まるで、記憶の中の夢が、勝手に書き変わっていっているようだ。
 歯医者で麻酔を打ったときのような、自分の体がぶよぶよとした塊になってしまったような気持ち悪さを覚えて、男は缶の最後の一滴を煽った。テレビからは、わはは、と空虚な効果音が流れていた。
 それから二週間後、男は朝イチでカップ酒を煽り、地元に向かう電車に揺られていた。覚え違いをしていることに気づいてから、夢ははっきりとした違和感で輪郭が縁取られていた。その後もあの夢は日に日に内容が書き変わり、その週の中頃には、住宅街が向こうに見える田園風景のただ中に死体を埋めた、ということに男の記憶の中の夢ではなっていた。
 そのことに気がついた男は、いい加減にしてくれと酒の勢いを借りて、トレンチコートのポケット財布とスマホとICカードだけを突っ込んで、電車に飛び乗ったのだった。
 男の地元は都心から電車とバスで三時間ほどの関東の片田舎にあった。酒がそこまで強くない男は、電車に揺られているうちにうつらうつらと船を漕ぎはじめてしまった。それからどれくらい経ったのか、とある駅でハッと目を覚まして飛び降りた。
 男が降りた駅は都心の始発駅と地元のちょうど中間ぐらいに位置する、子育て世代に人気のある新興住宅地だった。駅前には比較的新しい大型ショッピングセンターが立ち並び、都会でもよく見る低価格ブランドの看板が並んでいる。そのショッピングセンターに、男は見覚えがあった。
 そうだ、あそこに死体埋めたんだった。
 自然と頭の中に浮かんだ言葉に、ひとつ間をおいて、強烈な気持ち悪さを覚えた。男は急に何もかも恐ろしくなり、向かいのホームに走り込むと、五分後に来た電車に飛び乗って、まっすぐ家に帰った。

***

 男は弱いと言ってた酒をグッと煽ると、揺れる頭でぽつ、ぽつと続ける。
「だからね、つまりね、そういうことなんらよ、おじょおさん。おれがね、ゆめのなかで埋めてやった死体がよ、もー、死体のくせに、俺をおっかけてきてるんだよ」
 やろう、死体のくせにしつこくて、ついには俺の足元に埋まっているようになったんだ。しかもどこにでもついてきて、最近はいっつも俺のことをじっと見上げてるんだから、気味がわるいったらねえ。
 ったくよお、と意味のない悪態を吐き続ける男は、前後に揺れながら話しているうちにどんどん背が丸まり、いつの間に一回り小さくなってソファーの向こう側で浮き沈みしていた。
 ボックス席の奥に避難していたヨタが、はあとこれ見よがしに溜息を吐いた。酔った男のおかし話に付き合って、時計が半分以上回っていた。見れば、チカはいつの間にか注文していたイカの塩辛がのったポテトサラダと里芋のコロッケをきれいに平らげ、鋭い目つきで男を睨みながら、三杯目のグラス傾けていた。
「チカちゃん、俺、大河見たいし、そろそろ行こうよ」
「…………」
「チーカーちゃ」
「おじさん」
 ヨタの声を遮るように、ガン、とチカがグラスで机を叩く。その音で男の薄い頭がびくんと揺れる。
「おじさん」
 チカが目にかかった髪を掻き上げる。その目が爛々と光っていることに、ヨタだけが気づいていた。
「その死体は今もおじさんの足元に埋まってるんですか」
「ん、ああ。そうだよ、今もここで、こっちを睨みつけてきやがる」
「なんで睨みつけてきてるんですか」
「おれが知るか。俺だって気色悪いってどやしつけてやりてえわ」
「その死体の顔、おじさんは見ましたか」
「は? どういう意味……」
 男が言い終わる前に、チカがぐいっと身を乗り出した。
「じゃあ、掘り出して、見てみませんか。手伝いますから」
 ぽかんと口を開けた男を尻目に、ヨタはやれやれと首をすくめた。

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