鳥と白骨

 一説によると、鳥を飼う人は寂しがり屋で自由を愛しているらしい。特に根拠も無いただの俗説だが、なるほど、言われてみると納得がいきはする。明るい鳴き声で寂しさを紛らわせてくれるが、鳥籠で居住スペースが遮られているぶん、犬や猫ほど飼い主を束縛しない。……だからといって全ての鳥飼いをその枠に括るのは暴論だろうが、いざ愛鳥を失ってみると、一人の部屋はあまりにがらんとしていた。
 
 桐枝柊一(きりえだしゅういち)鳥羽雲雀(とばひばり)の初めての出会いは、夜のゴミ捨て場だった。
 ちょうどその頃桐枝が家の断捨離をしていて、その一環で枯れてもう再生の目処がたたない観葉植物を捨てに行ったのだ。
 枝切り鋏で何等分にも切った観葉植物を詰めたゴミ袋を持ってゴミ捨て場まで歩いていくと、ゴミ捨て場の前に一人の男が立っているのが見えた。さっさと立ち去ってくれればいいのに、男はじっと桐枝のほうを見て、しかも話しかけてきた。
「お兄さん、それいるやつ?」
「は?」
 この場合のそれ、は一体何を指しているのだろう。考えようにも、今の持ち物なんてこの枯れて茶色くなった観葉植物が入ったゴミ袋だけだ。いるやつ? と聞かれても、いらない。だから捨てるのだ。
「いらないですけど……。でもこれ、中身枯れた観葉植物しか入ってないですよ」
「大丈夫。いらないんだったら俺に譲ってくれる?」
 男はわざとらしく首を傾げてかわいこぶってくる。深く被ったパーカーのフードから、派手な原色のレモンイエローの髪がちらちら覗いていた。お兄さん、と言ったが、こちらより年上に見える。二十代後半くらいだろうか。その見た目の派手さに怖気ついたわけではないが、変に諍いを起こすのも得策ではないだろうと踏んで、大人しく相手の要望を叶えてやることにした。持っていたゴミ袋を男に差し出す。すると、男は桐枝が思っていたより丁重にゴミ袋を受け取った。パーカーの袖から覗く指先は黒を基調としたネイルで彩られていて、ゴミ袋を持つのにはひどく似合わない。男は会釈をひとつすると、桐枝が来たのと正反対の方向に向けて去っていった。
 ……妖怪か何かとの遭遇話だと思われそうだが、これが桐枝と雲雀の出会いであった。
 
 ファーストコンタクトこそゴミ捨て場だったが、今現在の雲雀が桐枝のバイト先のバーの常連になっているのにはその話はほぼ関係ない。ゴミ捨て場で遭遇した翌日に雲雀がこの店に偶然訪れて、そこから居着いているのだって単純に店を気に入っただけらしい。
 よくわからない出会いだったが、雲雀は面白い人間だった。話は面白いし、酒に酔って迷惑をかけるようなこともない。定期的に訪れて金を落としてくれる姿はどこから見ても模範的な常連客だったし、反感を買う要素はひとつもなかった。けれど、だからこそ、何故あんなゴミを欲しがったのかは未だに聞けていないのだが。
「そういえば俺、フルネームがめちゃくちゃ鳥なんだよね」
 ミックスナッツをつまみながら雲雀が言う。ウルフカットに整えられた派手なレモンイエローの髪の毛が、店内の薄暗い照明を反射してちらりと光った。ミックスナッツをちまちまつまむその仕草が何より鳥に似ているが、自覚はあるのだろうか。
「フルネームが鳥……ってなんですか。ああ、鳥羽さんだから?」
「そうそう。鳥羽雲雀。こんなに鳥だらけにしなくていいのにね」
「統一感あっていいじゃないですか。俺も木だらけですよ」
「え、桐枝くんの苗字しか知らないかもー。なになに?」
「ヒイラギに一で、柊一ですよ。桐枝柊一」
 それを聞いた雲雀は大きい声で笑い始めた。他の客から注目を集めているのでもう少し声を小さくしてほしい。だが、これが彼のいいところと言えばそうだった。いつでも楽しそうで、そのくせどこか陰がある。つまり大層モテそうな男なのだった。
「木偏がリーチしてるじゃん。……でも似合ってるしいいんじゃない? 俺さ、未だに桐枝くんが大学生って信じられないもん。俺より背でかいのにね」
「正真正銘大学生ですよ」
「たはは。最初のころ、俺みたいなダメなフリーターなのかと思ってた。大学生か……もしかして、今後シフト減ったりする? 桐枝くんがいないの寂しいよう」
「はいはい……。鳥羽さん、そろそろ怒られますよ」
 というような会話でわかる通り、雲雀はバーの常連だった。そして、やたらと桐枝に懐いていた。ほぼ毎回雲雀と話す羽目になっていたのは、この陽気でありつつも弁えている男が新人教育に丁度いいと思われたからだろう。彼は桐枝が忙しそうにしているときは独りで飲んでいたし、話す余裕がありそうならにこやかに声をかけてきた。客として申し分ない。
 だが桐枝としては、初対面のゴミ捨て場の件がどうしても心に引っかかっていた。店で会う姿があまりに気のいい青年なので、あの夜なぜあんな場所にいたのか、渡したものをどう使ったのか、聞きたいことはあっても尋ねることができなかった。雲雀が見せる快活さが、防御壁のように立ち塞がっている。結局何も聞けずに、ただ日々が過ぎるばかりだった。
 
 それから一ヶ月ほど経った夜のことだ。
 桐枝はとっぷりと暮れた夜の街をコンビニに行くため歩いていた。時間帯が時間帯だ、周囲には誰もいない。いつかのゴミ捨て場の前を通りすぎて、そういえば最近雲雀を見ていないなと思い出す。
 もう飽きたのだろうか。鳥羽雲雀は、最近バーに来ない。まあ、見るからに趣味の新陳代謝が早そうな男だ。飽きて来なくなってもおかしくはないが、なぜか胸の中がすーすーする。客と従業員の関係だけでなく、あの日の夜のゴミ捨て場が初対面だったせいで上手く割り切れていないのだろうか。なぜだか桐枝は雲雀のことが結構好きだった。あんなに軽薄そうな男だというのに、それが魅力的に見えてしまう。
 そんなことを考えて歩いていたから、鳥羽雲雀の姿を見つけてしまったのかもしれない。
 視界の右端、アパートの二階の階段に雲雀はいた。あのレモンイエローの髪は暗い中でもよく目立つ。何かを抱えて運んでいるようで……その何かは、目を凝らさなくても正体がわかった。
 青ざめた顔をした、女だった。死体には詳しくないが、もう死んでいるんじゃないかというくらい肌が白い。おそらく、もうあれは死体なのだろう。予感のようにその言葉がよぎった。逃げればよかったのに、目を離せない。そして、その視線を感じたのだろう、慌てたように雲雀が振り返って、……目が合った。
 目が合ってしまったので、もう駄目だった。雲雀が、死体を抱えて泣きそうな顔をしていたからだった。
 
「ごめんね。悪いことに付き合わせちゃって」
 シートベルトを締めながら、雲雀が言う。死体遺棄を悪いことで括るなよと思いながら、実際に発言はしなかった。
 いつも笑っているイメージだった鳥羽雲雀は、こんなときでも笑っていた。スマホの地図アプリを見ながら、口元だけ微笑んでいる。自分でもすごく馬鹿なことをしているなあと思った。今から、二人は死体を埋めにいくのだ。
「鳥羽さんって」
「なあに?」
「ヤクザかなんかだったんですか」
「違うよ。ごめんね、流石にビビるよね。……俺はしがないフリーター。あれはただの痴情のもつれ」
 喋りながら、雲雀が車のエンジンをかける。ちなみにこれは雲雀の車で、運転しているのももちろん彼だ。おそらく殺人犯である男の車に構わず乗り込んでしまったのは、雲雀に対する心配もあったが、この男一人くらいなら最悪殴り倒してどうにかなると思ったからだ。こう見えても柔道やら剣道やらを齧っていたおかけで腕力はある。対する雲雀は小さくてひょろひょろとしている。勝てなくはないだろう。
「え、桐枝くん怖い顔してない? どうしたの」
「いや、俺が本気でやればあなたを倒せるなと思って」
「怖! ……まあ君、そこそこ厳ついもんねー。顔も怖いし」
「厳つくてすみませんね。でも、鳥羽さんも非力すぎると思いますよ、俺は」
 桐枝は後部座席をちらりと見る。ここからでは見えないが、トランクには死体が積んである。ちなみに雲雀一人では持ち上げるのがやっとだったし、彼は最初随分焦っていて死体をそのまま運ぼうとしていたので、適当な寝袋に包んで、抱えて階段を降りて、車のトランクに突っ込むのまで、全て桐枝がやった。そういう情けなさを見てしまったせいで、桐枝はこの男を恐れる気持ちが湧いてこなかった。鳩尾に一発入れれば倒せる。
 後部座席にはスコップが二本積まれていて、これから二人が行くのは、遠い人気のない山だった。
 つまるところ埋めに行くのだ。
 そしてなぜ死体遺棄に桐枝が同行しているのかというと、この線の細い男が、女性のものとはいえ死体を埋められるのか疑問だったからだ。あと、雲雀が意外と動揺しているようだから、というのもある。表だけ見れば動揺は見受けられないが、そもそも死体を剥き出しで部屋から運び出そうとしている時点でかなり冷静ではないだろう。あそこに通ったのが桐枝以外の人間だったらどうするつもりだったのか! ……放っておけない年上を助けてやるくらいの気持ちでこの車に乗っている桐枝も、動揺はしているのかもしれない。何故って、未だに現実味がなかった。彼と一緒に車に乗っていること自体、ふわふわと夢のような気持ちでいる。
 沈黙が嫌になったのか、雲雀がカーラジオをつける。小さめに絞られた音量で流行りの歌が流れ始めた。まだ十代のアーティストが世界の虚無さを歌っている。ややあって雲雀が曲を変えた。今度はわざわざ自分のスマホから繋げて流すらしい。音楽に拘るタイプか。確かにそう見える。信号待ちの間に何やら操作して、ようやく曲が流れ始めた。
「そういえば、鳥羽さんっていくつなんですか」
「ふふ、いきなりだなあ。二十六歳だけど。どう? そう見える?」
「あまり。見た目が……派手ですし」
「言葉を選んだねえ。まあ、こんな髪してたらそう見えるか」
 雲雀はレモンイエローの髪を触る。いつもはきちんとセットされていたウルフカットは、今はぺたんと萎れている。落ち着いて見てみれば、服もどうやら部屋着らしき黒いパーカーだ。鳥羽雲雀に黒いパーカー、と来れば、初めて会ったあのゴミ捨て場が思い浮かぶが、あのときと同じ物なのかは分からなかった。聞いたとして、本人ももう覚えていないかもしれない。
 夜の暗がりの中で、雲雀のレモンイエローの髪はやはり目を惹く。運転席の横顔にネオンや信号機の光がちらちらと映って綺麗だった。そういえば自分は薄暗いところでしか雲雀を見たことがないのだ。だからこんなに綺麗に、いっそ危ういほど美しく見えるのだろうか。
「そっちは結局何歳なんだっけ? ……あんなとこで働くくらいだから成人だとは思ってたけど、大学生ってことしか知らないや」
 当たり前だが、雲雀はこちらの詳しいプロフィールを知らない。いくら常連と言えど、あくまで客と店員だからだ。お互いなんとなく個人的なことには触れず、伝えたのは精々、話の流れではあれどフルネームくらいだ。それも迂闊な行いなのだろうが。今まで引いてきた客と店員とのラインが、ようやく崩れ始めている。先に崩したのは桐枝だが。
「二十歳です」
 特に嘘をつくこともなく、桐枝は答えた。つまり自分は雲雀より六歳下であることになる。そこまで年の離れた相手と二人きりで夜に出かけることなどないなとふと思った。部活の打ち上げにはOB含め色んな世代がいたが、あれはいつも大勢だったし。
「若いね、六歳差か。俺成人したばっかりの子に殴ったら勝てると思われてるのか……俺からも一つ質問していいかな?」
「いいですけど」
「どうして俺が何歳なのか気になったの? そこは触れないでおくんだと思ってた」
 雲雀の方を見ると、お得意の微笑でもなく、たまに見せる明るい快活な笑顔でもなく、眉を下げて挑発するように笑っていた。初めて見る顔だ。
「嫌でしたか? すみません」
「ううん、嫌じゃないよ。怒ってもない。けど不思議だっただけ」
「年齢が気になったのは、曲のせいですよ。今かけてる曲」
「……選曲古いってこと? そんなに有名なアーティストでもないんだけどな」
「知らない曲だったからですよ。俺って、鳥羽さんのこと何も知らないじゃないですか。店では距離取ってないといけないし」
「うん」
「でも、癪じゃないですか? 俺たちは確かに店員と客ですけど、でも今から死体埋めに行くんですよ。もう少し、せめて歳くらい知っててもいいでしょう」
 少し間を置いて雲雀が笑い始めた。店で聞く快活な笑い声とは違って、押し殺したような笑い声だ。この人はこれが素なんだと咄嗟に思ったが、それも錯覚かもしれない。素の性格を判断できるほどの材料が足りなかった。
「……口説いてるみたいだね。大学でモテるでしょ」
「口説いてませんよ。あんた、死体積んだ車で口説かれて嬉しいんですか」
「嬉しいよ。どんな形でも愛は愛だから」
 雲雀はそう言うのと同時に車を左折させた。コンビニの駐車場に車を停めると、少し困ったような顔をして言う。
「長くなりそうだし飲み物奢ったげる。何がいい?」
「……麦茶で」
「りょーかい。俺のこと知りたいなら好きにしていいけど、あんまり期待しないでほしいなあ」
 どういうことですか、と聞く間もなく、雲雀はコンビニに向かっていった。
 車の中で一人、雲雀がかけた音楽をただ聴く。寂しくなるようなメロディに乗せて、愛や孤独が切なげに歌われていた。
 ……死体を埋めて、その後少なくともバイトは辞めないといけない。それより先に雲雀が店のほうに来なくなるかもしれないが。何にせよ、店で顔を合わせるのだけは避けたかった。犯罪を共有している二人が、周囲に人が大勢いる場で顔を合わせてもいいことはないだろう。……そうか、今から自分は犯罪を手伝うのか、と今更思う。本当はこの車に乗るべきではなかった。自分の防犯意識に綻びがあるかもしれないのは重々承知しているが、自分だってあそこに立っていたのが鳥羽雲雀でなかったら車に乗ったりしない。彼はまるで深い穴のようだった。
 誰だって真っ暗な穴があったら、その深さを知りたくなるだろう。落ちる危険性があるとしても身を乗り出したくなってしまう。そうして身を乗り出しすぎて、落ちる。
「麦茶なかったよ。緑茶でいい?」
「……あ、はい」
 雲雀が声をかけるまで、桐枝は黙々と考え込んでいた。ドアの開く音に肩を跳ねさせた様子を見て雲雀が困った顔をする。
「どうしたの? もしかしてここまで来てビビったとか?」
「ビビってませんよ。そっちこそ、俺が今の間に逃げたらどうする気だったんですか」
「きみは逃げないでしょ」
 神託のように言われて、返す言葉が見つからない。
 自分はコーラを買ったらしい雲雀は、一口飲むと黙って車を発進させた。駐車場の明るさに慣れていた目では、道が先程よりも一層暗く見えた。もう山間に差し掛かっていて他の車も、ましてや建物も少ない。時折信号が赤く光るばかりだ。真っ直ぐな暗い道を車はひたすら走る。
「俺のこと知りたくてもまあ、いいけど。期待するようなものはなんにもないよ?」
 舗装された山道を車が登りはじめたところで、雲雀が呟いた。顔は正面を向いたまま視線だけを一瞬よこされて、射抜かれたような気持ちになる。なんにもないと言われても、こちらには初めて会ったあの夜があるのだった。それを差し引いても、鳥羽雲雀はなんだか特別な生き物に見えて仕方なかった。何か仕組みがあるような、見えないところに何かを隠しているような。
 彼について知りたいが、思い返せば聞きたいこともひとつあった。あの時渡した枯れた植物は、一体どうなったのだろう
「初めて会った日の話していいですか? 真夜中に、ゴミ捨て場で」
「……ああ、そんなこともあったね。次の日にさ、初めて行くお店に昨日会ったお兄さんがいるんだからびっくりしたなあ。まあお兄さんじゃなくて背のでかい若い子だったわけだけど……」
「あのとき渡したもの、何に使ったんですか?」
 雲雀が短く息を吸うのが聞こえた。静かな車内は些細な動揺まで拾ってしまう。雲雀が長い睫毛を二、三回瞬かせた。言うか迷っているというより、適切な言葉を選んでいるような。そんな沈黙が流れたあと唇がそっと開かれた。
「練習だよ。埋葬の練習」
 彼はそう答えた。勿論、視線は進行方向に向けたままで。
 
 やがて車が路肩に止まった。ここからは歩きだよ、と言われて、車を降りる。
 さて問題になってくるのが、誰が死体を担ぐかということだった。雲雀が一回試したのだが、担ぐことはできてもそのまま山道を歩けるかはわからないレベルだった。小柄な女性の死体だというのに非力にも程がある。
 仕方ないので、桐枝が担いだ。適当に寝袋に包まれた死体は、ぐにゃりとしているのかと思いきやそうでもない。死後硬直とやらが始まっているのだろうか。寝袋に入れておいて助かった。生々しい手足や顔を見たくはない。彼女だって見られたくないだろう。
「たぶんこの辺ならよさそうじゃない? 広いしさ」
 スコップ二つを担いだ雲雀が示した位置は、確かに開けていて、人が木を伐採した名残りなどもなさそうだった。というかよさそうじゃない? と聞かれても、桐枝にはさっぱりわからないのだが。雲雀が埋める土地の当てはあると言ったからここまで来たというのに。
「……本当に大丈夫なんですか? いくら人が滅多に入らない山だからって、土地の持ち主がここにソーラーパネル建てたがったらどうするんです」
「そこでソーラー出てくるのが現代っ子だね。大丈夫、ここ俺の土地だから」
「は……? もしかして金持ちなんですか?」
「違うよ。ご先祖さまが所有してた土地を、そのまま引き継いで長男の俺が持ってるだけ。……まあ役に立たないしお金かかるだけだよ」
 スコップで地面に楕円を書きながら、雲雀が言う。私有地なら、確かに見つかる可能性は他より少ないのかもしれない。もし工事か何かでここが掘り返されても先に一声かかるだろうし。安全といえば安全だろう。
「というわけで、掘るよー」
「あっはい……どうしてテンション高いんですか。車の中では割としっとりしてたくせに」
「いや、穴掘るの楽しいだろうなあって」 
「ここは砂場じゃないですからね」
 雲雀に釘を刺しつつ、彼が引いた線の通りに穴を掘っていく。予想はしていたが穴を掘るのは重労働だった。まだ夜は寒い時期なのに、その寒さを打ち消して汗をかく。時折汗を拭いつつ、二人で黙々と穴を掘る。
「これってどのくらい掘ればいいんですかね」
「……あー、どうかな……? でも……あんまり浅いと野犬とかが掘り起こしちゃうらしいからね……。とりあえず、できるだけ深くしよう」
「死にそうな声出てません? 大丈夫ですか」
 最初はあんなにはしゃいでいた雲雀はわかりやすく体力を消耗していた。元から鶏ガラもかくやといった細身の体をしているし、体力がないことはなんとなく察していたのだがここまでとは。帰りの運転もあることだし、あまり疲れさせるものでもないだろう。
「休憩してていいですよ。俺、体力ならあるので」
「ありがとう……本当に感謝してる……」
 そう言って雲雀は適当な岩の上に座って、持ってきていたコーラを開けていた。見守られながら桐枝は地を掘る。穴はもう桐枝の膝くらいまであった。だが、身長くらいの深さが望ましいだろう。深ければ深いほどいい。見つかってしまってはいけないものは、できるだけ深くに埋めないと。
「体力あるってさ、運動とかやってたの?」
「……なんですか? 藪から棒に」
「いや、やってそうだなーって。身長も高いけど、体格が結構がっしりしてるからさ」
「まあ、運動はやってましたよ。小学生のころから剣道をずっと……あとは柔道も齧ってました」
「渋いねえ。確かに礼儀正しいもんね、きみ」
 ラジオのように雲雀の声を聞きながら穴を掘り進めていく。この穴が墓になるのだと思うと、不思議な気持ちだった。たとえば大昔、今のように冠婚葬祭がビジネス化されていない時代では、こうして遺族が墓穴を掘ったのだろうか。それとも墓穴掘りを生業にした人達がいたのかもしれない。もしそうなら自分はそれで食べていけるな、とくだらないことを思う。
「やってた、んだね。過去形ってことは今はやってないの? 柔道も剣道も。部活とかありそうだけど」
「……そうですよ。大学進学して田舎を出たときに全部辞めました」
「なんで?」
 振り向くと、雲雀は笑っていた。……俺のことを知りたいのなら自分の秘密も晒せと、弧を描いた目が物語っている。話したいものでもなかったが、黙秘できる雰囲気でもない。
「たぶん辞めないほうが良かったし、幸せだったんでしょうけどね。なんか、やっててもずっと物足りなかったんで。物足りない原因が知りたくていっそ全部辞めてみたんですよ。馬鹿みたいですけど」
「うん。わかるよ、そういうの。それは今も物足りない?」
 言われて考えてみると、高校時代から付き纏っていた物足りなさが薄くなっている気がした。こんな非日常に身を置いているからだろうか? 何のために生きて、何に夢中になるのが正解なのか分からないような、あの虚無感がもうほぼ埋まっている。
 気付く。雲雀を見ていると、胸の中に空いた空白が埋まるような気がするのだ。それほど惚れ込んでしまったということなのだろうか?
「まあでも、辞めてくれてありがとね」
「え?」
「だって部活なんてしてたら、あの店で働いてないかもだろ?」
 だからありがとう。雲雀は一つ伸びをすると、自分の分のスコップを手に取った。もう腰ほどの深さになった穴の中に入ってくると、そろそろ手伝うよと掘り進める。二人はそこからもくもくと掘り、穴はようやく二人の首ほどの高さになった。
「そろそろいいかな」
「いいんじゃないですか」
 雲雀が死体を包んでいた寝袋のファスナーをゆっくり開ける。中の死体は完全に生気を失っていた。触ると固く、まるで精巧な人形のようだ。腹部を一刺しされた死体を目の当たりにして、どうすればいいか少し悩む。手を合わせるべきだろうか。これから行うことは決して彼女にとって有益な行いではないだろうに。真っ直ぐに切り揃えられたボブカットの、桐枝より少し年上くらいの女性。死体にしては綺麗に目を閉じていた。それを見て、少し前まで飼っていた小鳥のことを思い出す。あれが死んだときもこういうふうに、触ると固くて冷たかった。
 雲雀が死体を抱きかかえ穴の中央に落とす。重力に従って落ちていく死体は、本当にマネキンか何かのように感じられた。自然落下に従って落ちた肉体はばらばらと両手両足が変な方向を向いていた。せめて手足を揃えて落ちてくれればもう少し罪悪感があったかもしれない。おかしいことだが、本当に信じられないことだが、その時点で桐枝は穴の底の死体がおもちゃの人形か何かにしか見えなくなってしまった。ゴムひもで手足を繋がれた、絵本に出てくるようなおもちゃの人形。あまりにも無惨な光景を見ると、人は現実逃避がしたくなるのかもしれない。
「どういう関係だったんですか」
 せめて彼女が人間だということを思い出したくて、縋るようにその一言を絞り出した。それを聞いた雲雀は少し笑う。
「五ヶ月くらい一緒に住んでた子。……俺もあの子も、お互い寂しがり屋でね」
 穴の縁に座り込んだ雲雀は、何かを慈しむようにゆっくり瞬きをした。長い髪で隠れているせいで、その表情は伺い知れない。
「相手が女の子だから、変な誤解されちゃうかもしれないけど。恋人じゃないよ? ただ同居してただけ。ネットで知り合って、お互い寂しがり屋だって知って……それで同居してたんだけど、ちょっと喧嘩しちゃったんだ。先に包丁持ち出してきたのはあっちなんだけど、揉み合ってるうちにグサッと」
「……寂しがり屋?」
 前後の発言より、その単語が気になって仕方なかった。
「俺の中の鳥羽さんって、割といつも人に恵まれてるイメージなんですけど。友達多そうだし」
「そうー? まあ友達はいるけどね、それでも埋まらなかったから……」
 雲で隠れていた月がちょうど姿を表して雲雀の横顔を白く照らした。その横顔が、今にも泣き出しそうな顔に見えたのは気のせいだったのかもしれない。次の瞬間にはもうなんでもないような顔をしていたから。
「ずっと、心の中にでっかい穴が空いているような気持ちなんだ。俺もあの子もお互い同じで、寂しくて、仕方ないからその穴を埋めるために寄り添い合おうとして……それで一緒に住んでた」
 雲雀は死体が落とされた穴を見やって、悪趣味なジョークみたいなこと言っちゃったね、と少し笑ってみせた。何も言えずに桐枝はただ雲雀の髪が揺れるのを見ていた。派手なレモンイエローは、こんな夜でも変わらずきらきらしていた。
「埋めようか。そろそろ」
 雲雀がそう言ったので、二人で穴を埋める作業に入った。死体は相変わらず作り物のようで、月の光に照らされながら無言だった。死体は何も言わない。彼女が雲雀をどう思っていたのか聞く術はないし、最期になぜ揉めたのかすら桐枝にはわからないのだった。雲雀に聞けば答えてくれるかもしれないが、それはあくまで雲雀側の主観でしかない。この死体が見つからなければ、彼女は行方不明者ということになるのだろうか? 全ては穴の底に封じられて、知っているのは鳥羽雲雀だけになる。土に埋めた死体は、もう本当に何も言わない。
 埋める作業は、掘るより何倍も早く終わった。あまりにも早く終わるので二人とも無言のままだったほどだ。埋め終えた土を適当に均して、それで終わりだった。雲雀が墓前でやるように手を合わせる。何か呟いていたようだが、こちらからは聞き取れなかった。ややあって雲雀はぱっと顔を上げる。その表情はもう先程までの憂いや寂しさとは無縁のものになっていた。
「……帰ろっか。お腹すいたね」

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