推理小説は始まらない

ラヴィ崎

 彼女の笑顔を守るためなら、なんだってしてあげたいと思っていた。
 だけど、夜刃がそれを埋めると言った時、優也は頷くことしかできなかった。早くこの死体を隠さなければならない。どこまで掘ればなかったことにできるだろうと考えながら、心の奥にしまっていた箱を開ける。
「お前さ、ミサの秘密……知ってる?」
 ドブのように嫌な色を放つ宝物が自分だけのものではないことくらい、優也はとっくに分かっていた。分かっているのに聞いてしまったのは、この空間で生まれた奇妙な協力関係のせいだろう。
 想像していなかった。
 あんなに憎んでいた男と、好きな女の死体を埋めるなんて。

 世の中、シンプルな物のほうが価値があるのかもしれない。
 それなりの時間並んでありついたラーメンに具がひとつも乗っていなかった時、優也はそう思わざるを得なかった。
 麺をすすりながら「ホント?」という顔をしている人間は他にいなくて、その場にいる全員がこれを食べに来ているのだとようやく分かる。意識が高い、という話は聞いていたけれど、優也の思っているものではなかったようだ。絶対に残してはいけないとか、ロットを乱さないとか、そういうことだとばかり思っていたのに。
 透き通ったスープは情報量が少なくて、どこか誠実にも思えてくるのが不思議だった。だけど、それが正しいのかもしれない。どんぶりいっぱいのカツ丼よりも、大きな皿に少しだけ乗ったラム肉。レザージャケットよりも、爽やかな色のTシャツ。長ったらしいキザな台詞よりも、一言で伝えるプロポーズ。
 実際ラーメンは美味しかったけれど、それは普段食べている背脂や焼豚の不在が新鮮だったとも言えるだろう。要するにギャップ萌えだ。
 そんなことを思い出しながら、意識の高いラーメンを思わせる簡素なメッセージを見る。「大事な話がしたい。部室で待ってる」。絵文字とスタンプによって飾られた言葉よりも、その誠実さが優也の胸を高鳴らせた。普段なら起きない時間に目が覚めたのも、運命と言えるだろう。
 一限より三十分も早いその時間、サークルの荷物が置いてある部室に人はいない。それどころか、大学構内にもほとんど人はいないかもしれない。駅に着いてから学生らしき背中を見ることはなくて、コンビニの店員も暇そうにしていた。
 優也が校門をくぐると、見知った男が走ってくる。いつも通り長い黒髪を無造作に結んでいるが、険しい顔に息を切らせた様子は珍しく思えた。もちろん隣に彼女はいない。
「夜の刃でヤイバなんて、絶対こわいひとだよね!」
 どこか楽しげに悪口を言った彼女のことを思い出しながら、実際に他人とつるんでいるところを見ないその男のことを優也は考える。夜刃は失恋の傷をどうやって癒すんだろう。勝利を確信した今となっては、孤独が決定した相手のことが可哀想に思えてくる。優しくしてやりたい、あるいは余裕を見せつけてやりたい気分だった。
「忘れ物でもしたの?」
 こちらに気付いていない様子の憐れな男にそう問いかけると、彼は驚いて足を止めた。そしてすぐに顔を強ばらせ、震える声で言う。縋り付くように見開かれた目の奥が揺れる。
「あんた、今、来たのか?」
 あまりに切実な響きに優也は面食らった。
「そーだよ。てかこれ以上早く来ることある?」
「……さあな」
 ふい、と顔を逸らした夜刃は、舌打ちを残してまた走っていった。一限が始まるまで余裕があるし、そこまで大急ぎで走らなくとも間に合いそうな気もする。確か、あの男は家が近いのだ。気付けば知りたくもない情報に詳しくなってしまった。
 サークル棟に着いてすぐ、トイレの鏡で髪型を確認した。栗色の細い毛はいろんな方向にぴょんぴょん跳ねているけれど、きっちりと分けてスーツを着た入学式の四倍は女ウケが良い。
 きっと告白されるのだ。優也のこれまでが肯定されて、お互いがお互いの隣を予約済みだと認識する。

 美咲と出会ったのは、入学式から一ヶ月ほど後のことだった。
 ガムテープに名前を書くという習わしはどこから生まれたんだろう。二年生の先輩に渡された丸文字のフルネームを眺めながら、優也は不思議に思う。変なところに貼り付いてしまったものをわざわざ剥がすのも億劫で、紙コップに注がれたジンジャーエールを一口飲む。コーラとオレンジジュースに挟まれたペットボトルはパンパンに太ったままで、優也は無意識にそれを選んでいた。
 多様な遊びサークル「わんぱくスター」の新入生歓迎会は、非常に健全な雰囲気のなか行われた。大学のカフェテリア内を占領して、酒ではなくジュースを持つ。プログラムもフルーツバスケットや人狼などの子供らしいレクリエーションばかりだった。多様な遊びと聞いて爛れた集まりが思い浮かんだのだが、大学内で一番の人数を誇るこのサークルはどこまでも清潔らしい。
 早めに先輩との繋がりを確保したい、というのが本音だった。友人なんて多くても面倒だし、正直なところ困っていない。楽単の知識とか過去問の提供とか、そういった安寧を手に入れるのが優也の目的だ。
 そんなことを考えていると、ねえ、と高い声で話しかけられる。見れば、明るい茶髪の女子が立っていた。黒いワンピースがてらてらと光っていて、耳にはいくつもピアスがある。そして、顎で揃えた髪の下、チョーカーが誇らしげに結ばれていた。なんとも言えない雰囲気のある子だ。
「ひとり? 一緒にいてもいい?」
「あー、うん。そっちも一年だよね」
 頷いた彼女の胸に貼られたガムテープを見る。
「よろしく……ミサキ?」
「先輩に勝手に書かれちゃった。こういうのって、自分で呼ばれたい名前を書くもんなんじゃないの? 美咲なんてダッサイ名前で認知されたくないよ」
「そう? いいじゃん」
 なんといっても読みやすい。この時代、愛という字ひとつとってもアイとかマナなんて読み方をする方が珍しいのだ。
「いい? なんで?」
「あー、かわいいから」
「……本当にそう思ってる?」
 美咲は口を尖らせて言った。
「名付けランキング一位なんだよ、この名前。オリジナリティの欠片もないよね。名は体を表すって言うし、もっと私っぽい名前がよかったのに!」
 生まれてから名前の通りに育つほうが怖い気もするし、名前なんて記号に過ぎないだろう。けれど、確かに優也もぴったりの名前だと褒められた経験があった。優しく育ってほしいという両親の思いのままに育っているのだろうか。優也にとって、他人に優しくすることはとても簡単だ。
 誰も選ばないジンジャーエールが手元でぱちぱちと弾けて、これまでのことを思い出す。
 お前、やばいやつばっか選ぶのやめろよ。そんなことを言った高校のクラスメイトは本当に優也のことを心配していたのかもしれない。女子からは好かれる方だったけど、優也が好きになるのは何故だかいつも精神的に不安定な子だった。
「じゃあ、俺の名前はどう思う?」
 腕でぐちゃぐちゃになったガムテープを見せると、彼女は眉を顰めた。
「ユウヤ? ……つまんない名前」
 そうやって笑う顔がこれ以上ないほど可愛くて、恐らくその時にはもう、彼女のことが好きだった。 

 美咲の言う「部室」は、わんぱくスターの部室ではない。どのサークルも使っていない空き部屋、正確に言えば大学祭の時期にだけ使われる実行委員の部屋を、人が来ないのを良いことに私物化していた。優也を呼び出したのも、もちろんその部屋のはずだ。サークル棟の一階を突き当たりまで歩いて、何も書かれていない扉を開く。
 つんとした匂いがする部屋の中に美咲がいた。入口に背を向ける形で椅子に座り、机に突っ伏して寝ているようだった。こんなに早い時間を指定したせいだろう。美咲は夜行性で、夜中まで起きているし朝は寝ているのだ。だけど、呼び出したのは美咲のほうだから、もしかすると徹夜で酒でも飲んでいたのかもしれない。酒の勢いで優也に告白する決意をしたというのも、なんとも美咲らしい話である。
「ミサ、起きて」
 優也が近付くと、刺激臭が強くなった。よく見れば、机の上には吐瀉物が広がっていて、あたりには酒の缶や瓶がある。それに、錠剤が入っていただろう包装シートがばらまかれている。
 嫌な予感がした、というのは正しい表現ではないかもしれない。いつかこうなることが、優也には分かっていた。だけど信じたくなかった。だってそんなの、どう考えたっておかしい。
「ミサ!」
 優也は何度も肩を揺さぶって、彼女の白い頬を叩いた。
 何度呼びかけても、美咲が目を覚ますことはなかった。

 美咲と知り合ってからというもの、授業やバイト以外の時間は彼女に費やすようになった。最初の何回かはサークルに顔を出していたけれど、美咲と会う以上の価値は見いだせなかった。結局、面倒見の良い先輩と知り合うこともないまま、優也は美咲と甘い飲み物を飲む。空きコマが被っている曜日は、昼食を共にした流れでカラオケやゲーセンに行くこともあった。
 人を小馬鹿にしたような表情のニンジンが、こちらを恨めしそうに見ながら落ちていく。キャー、という悲鳴とともに美咲がそれを取り出すと、背負っていた小さなリュックに付ける。
「ありがとー! クレーンゲーム苦手だから終わったって思ってた。優也って本当に優しい」
「はいはい、どうせつまんない人間ですよ」
「顔が良くてつまんない男って、女の子に人気ありそうじゃん」
 多数に求められることは、彼女の中では悪口のように使われていた。流行りのキャラクターも、期間限定の飲み物も、美咲が好きになることは稀だ。とはいえ、美咲の手の中にある不細工なニンジンもSNSでは流行っているようだし、およそ飲み物の名前とは思えない呪文のようなカスタムも若者らしいように思える。だから結局、欲しい言葉は彼女も同じだった。
「ミサといるほうが楽しいよ」
 ミサという呼び方は、自分の名前を嫌がる美咲に優也が付けたあだ名だ。そうやって飾り付けて、美咲を特別な女の子にするのが好きだった。
「私とばっか遊んでるもんね、優也」
「そっちだって」
「私友達いないもん。……あ、けど、最近ぼっち仲間できたかも。陰キャ丸出しの真面目そうな男の子」
 美咲の口から出てきた別の男の存在に少し驚く。真面目そうな男なんて、美咲の好みではないだろう。そうやって優也が自分を安心させている間も、美咲はどこか楽しそうだった。
「名前が良いんだよ。ヤイバって言うの」
 漢字はどうやって書くか、だとか、美咲に興味がなさそうなこと、そして、グループワークで意外と協力的だったこと。そんなことを話されて、もしかすると嫉妬させたいのだろうかと優也は思う。お望み通りに、とばかりに手を引いて、優也は美咲を丁重に飾り付ける。
 秘密を教えてあげる、と言われたのはその直後くらいだ。
 その出来事がふたりの距離を更に近く、閉鎖的に変えたように思う。美咲の秘密は、ある意味では優也もよく知っているもので、だけど決して叶えてあげられない要望でもあった。だから優也は何より美咲のことが大切だと、彼女にそう伝えた。笑顔が好きだとか、その笑顔を守りたいとか。愛の告白だったと思う。
 勇気を出した優也の言葉に、美咲は落胆したようだった。
 それからすぐ、美咲は夜刃と行動を共にするようになる。
 優也と過ごす時間も変わらずに存在していたけれど、美咲のSNSに写りこんだキスマークだとか噛み跡だとか、そういったことを教えてくれる人がいた。サークルも参加していなければ、すぐに女のところへ走っていくような生活をしていても、やっぱり優也には友人がいた。高校の頃までと同じで、心配してくれるような人もいる。
 きっと、あの二人に友人はいない。

 廊下に響く足音に背筋が凍りつく。こんなところで座り込んだってどうしようもないのに、足が言うことを聞かなかった。何も悪いことをしていないのだから堂々とするべきなのだと、その時は全く気付かなかったのだ。
 それに、彼女の死を隠してしまいたいという考えが生まれ始めていた。だから、優也の持つ罪悪感は正しい。今まで祈ったこともない神様に心の中で縋りつきながら、審判の時を待つ。心臓の音が外まで聞こえてしまうんじゃないかと思った。
 そして、背後で扉が開き、すぐに閉まる。
 ゆっくり後ろを振り返ると、夜刃が立っていた。彼は目を細めてこちらを一瞥したあと、乱れた髪を結び直す。驚いている様子はなく、表情は変わらない。優也は苛立ちながら声を上げた。
「お前! どうして、ミサが……!」
「……大きな声を出すな。人が来たらどうする」
 夜刃の手の中で、ヘアゴムにぎゅうと圧迫された黒髪が揺れる。
「死んでる。何度も確認した。出来ることもした。あんたがしてやれることはもうない。分かったら黙ってろ」
 早口でまくし立てられ、優也はどうしても確認しなければならない一言だけを口に出す。
「……お前が殺したの?」
 夜刃はふっと自嘲気味に笑うと、目を逸らして言った。
「俺じゃない。……残念ながら」
 そして、床に寝かせたスーツーケースを開く。ポニーテールになると少しだけ快活そうに見えて、彼が何かを一直線に見据えているのが分かる。その覚悟が非現実的で怖かった。
「ねえ、通報、もうした?」
「通報はしない」
「なんで」
「美咲は、山に埋める」
 ごくりと喉が鳴る。人間の体を埋めるだなんて犯罪だ。確か、見ないふりをするのだって犯罪になる。それに、こんな姿になった美咲を、見ないふりなんてしたくない。彼女が死んだのは事実なのだ。そう思ったら、たまらなくなった。
「俺も行く」
 夜刃は何も言わなかった。

戻る