あなたの靴を拾いたかった

冬月藍

 天方紫雨(しう)が死んでいた。
 その事実を飲み込むのに私は途方もない苦労を払った。
 私の知る限り最も完璧で美しい人。私の友達。死ぬことも、喪われることも考えたことがなかった。
「何これ……嘘でしょ……」
 お芝居の一幕みたいに「びっくりした?」と紫雨が美しい顔で微笑むところを夢想した。けれど、どれだけ立ち尽くしてみても彼女の声は聞こえない。
 紫雨は自宅マンションの一室で事切れていた。完璧な美貌を持つ彼女は死んだ姿もやはり美しく─と形容するには、首があらぬ方向に捻じ曲がった死体にはグロテスクさがある。気持ち悪さを感じたこともまた、私には衝撃だった。
 呆然とした私の鼓膜に現実を叩きつける声が響く。
「嘘じゃない。姉さんは死んだ」
 落ち着きすぎた声だった。物言わぬ死体になった紫雨の横に膝をついている月晴(つきはる)は、彼女に似た横顔を私に向けている。
「警察、呼ばなきゃ」
 救急車という言葉がこの時は出てこなかった。紫雨が息をしていないことも、心臓が動いていないことも明らかだったから。
理子(りこ)ちゃん、聞いて」
 月晴は宥めるように、言い聞かせるようにじっと私の目を見た。
「姉さんが、『siu』がこんな風に終わっていいはずがないんだ」
「どういうこと……」
「姉さんを埋めよう」
 不意に紫雨と目が合った。様相がどれほど醜くなっていようとも瞳は相変わらず美しく、凄惨ではあっても彼女から目を離すことはできなかった。

  §

 私と天方紫雨が初めて出会ったのは中学二年生の夏だった。夏休み明け、田舎の公立中学校に突然転校生として現れた紫雨は、あまりにも鮮やかだった。
 大きな瞳、白くてつやつやした額、小ぶりだが形の良い唇。さらりと肩に落ちた薄い茶色の髪。華奢な体つきながら長い手足。可愛らしい少女という概念を煮詰めたらこんな感じかもしれない。今よりずっと高性能な画像生成AIが生まれたとして、「美少女」と打ち込んで出てくるのはきっとこういう女の子だ。完璧すぎて観念的で、ざわつく教室の雰囲気とは対照的に私は少し引いていた。
 それなのになんの因果か、彼女は短く自己紹介を済ませると通路を挟んで私の隣の席に座った。思わずその横顔をまじまじと眺めていると、彼女も気づいたらしく小さな会釈をした。慌てて「よろしくね」と短く言い、教卓に向かって目を逸らす。
 ファーストコンタクトがこんなのだったにも関わらず、いつの間にか紫雨と話すようになったのは、やはり隣の席だったことと私が学級委員だったことが大きいだろう。
「この学校に演劇部ってある?」
 放課後を告げるチャイムがなった直後だった。
「演劇部はないかな……。天方さん演劇部だったの?」
「うん。そんな感じ」
 転校してくるまで東京で生活していた紫雨が児童劇団に所属していて、CMや端役とはいえテレビドラマに出演していたことを知るのは、もう少し先の話だ。
「演劇部はないんだけど、放送部なら……。朗読コンクールとかあるよ」
「そうなんだ。えっと……」
 彼女の目が私の制服の左胸─渡瀬理子という名前が書いてあるだけの名札に向いた。
「渡瀬さんは放送部なの?」
「うん。見学ならいつでも」
「今日は早く帰らないといけないんだけど、明日─見学させてもらってもいい?」
「大丈夫だと思う。先輩には言っておくね」
「ありがとう」
 柔らかいけどか細くない声だなと思った。放送コンクールのお手本みたいな発声だ。
 結局紫雨は放送部に入って、クラスも部活も一緒の私は彼女の友達になった。私の呼び方は「渡瀬さん」から「理子ちゃん」になって、中学を卒業する頃には「理子」になった。あの頃、紫雨が呼び捨てにする友達は私だけで、それが特別嬉しかった。

  §

 ガチャ、とトランクの開く音で意識が引き戻された。少しして運転席のドアが開いた。
「お待たせ」
 月晴はエンジンをかけると黄色いビニール袋を助手席の私に渡す。
「飲み物とパン」
 食べたら、ということらしい。それを受け取ると、ろくに中身も確認せずに膝の上に置いた。
「買えたの?」
「うん。スコップと長靴」
 都会のディスカウントショップは便利だ。二十四時間開いていて、こんな夜中に死体を埋めるための道具が買える。
 私が車から降りなかったのは念を入れてのことだった。時刻は夜中の二十三時。スコップや長靴を買うのにふさわしい時間なんてあるのかわからないけれど、少なくともこの時間ではないはずだ。若い男女二人組が購入していくのは目を引くに違いない。だから、あえて月晴だけが店に入った。
 車が滑らかに発進する。深夜でも東京の街は明るい。窓には助手席に座った私自身と月晴の横顔が映っていた。黒に近い茶色─ぎりぎり会社で許される明るさ─に染めた髪を肩まで伸ばし、淀んだ目をした若い女。大学を出て、社会人二年目。私はどこにでもいる平凡な人間だ。
 対する月晴は、わずかに少年の面影が残る美しい青年だった。薄く、白い肌。切れ長の瞳。くっきりとした二重の線。形の良い唇。紫雨をもっと硬質に、冷たく磨き上げたらこうなるだろう。
 天方月晴は紫雨の三つ下の弟だ。派手な印象はないが思わず人が視線をやるような、はっとする美しさは紫雨と本当によく似ている。けれど、紫雨が一度見たら忘れえぬような存在感があるのに対し、彼の方は不思議と人の印象に残らないところがあった。
 月晴とどちらが買い物に行くか相談したとき、はじめは私が行くと主張した。美貌の若い男より、その辺にいくらでもいる平凡な女の方がスコップやら長靴やらをこの時間に買っても目立たないはずだ、と。けれど、月晴は普通の若い女性が深夜にそんな買い物をするのは店員の記憶に残るはずだと反論した。最終的にその反論に従って、私は車の中で彼を待っていた。
「それで、どういうことなの?」
 半ば月晴に押し切られる形で紫雨の遺体をスーツケースに詰めて車に運び込んだ。そのスーツケースは後部座席に置かれている。
「姉さんは殺されたんだ。俺たちの父親に」
「父親?」
 思わず怪訝を露わに問い返す。紫雨と月晴に父親はいなかった。少なくとも紫雨が転校してきた頃には、母と姉弟三人暮らしだったはずだ。紫雨から父親の話を聞いた記憶もない。
「俺たちが母さんの実家に引っ越したのは、両親が離婚したからだよ」
「そうだったんだ」
 月晴は滔々と語り出した。
「俺たちの父親は良い人間じゃなかった。母さんは俺が生まれてすぐに父から逃げ出して、都内を転々としてた。俺が小学校に上がるくらいまではそれなりに平和だったんだよね。父親にも相手がいたらしいから」
 少しずつ思い出してきた。紫雨の母親の噂。私の実家はまあまあの田舎で噂話が人々の娯楽として口に上がる。紫雨の母親が夫から逃げてきたと好奇の色を持って語られていたことは確かに覚えがある。姉弟の母親も人の目を引く美しさを持っていた。
「でも、そのあと父親がまた母さんに執着し始めて、居場所を突き止めて……。色々あってなんとか離婚が成立して、母さんの実家があった町に引っ越した」
 そういう経緯で、紫雨と月晴は私の住んでいた町にやってきたのか。
 月晴は「父親」と自らの父を呼ぶ。彼の話の通りなら、月晴に父の記憶はほとんどないだろうし、温かな家族の思い出話を聞かされたとも思えない。その呼び方は他人行儀を通り越して、現象を告げるように聞こえた。
「お父さんと連絡は?」
 月晴は首を横に振った。
「取る訳がない」
「そうだよね」
「でも、姉さんも俺もずっと恐れてた。いつかあの人が『siu』を見つけるんじゃないかって」
 タイミングが良いというのだろうか。ちょうどその時、手元で弄んでいたスマートフォンが光った。投稿があれば即座に通知されるように設定しているアカウントが、新しい情報を公開した合図だった。
〈siu新曲をストリーミング限定配信〉
 表示されたアイコンと目が合って、私は反射的に画面を伏せた。

  §

 紫雨はアイドルになりたいと言った。それを聞いた時、私は世辞も疑いもなく「なれるよ」と言った。
「そうかな」
 言った紫雨の言葉にも不安より確信の色が強かった。別に彼女が傲慢だというわけではない。目標とそれに向かう努力、成功という当たりくじを引く確率、等々。全てを総合して冷静に彼女はやれると判断しただけのことだ。やると決めたら、やるべきことを淡々とできる事こそが、紫雨の最も偉大な才能だったと思う。
 紫雨は高校二年生のときに『君のシンデレラ』というアイドルユニットでデビューした。紫雨の名前が好きだった私には、他のメンバーと揃えられた『siu』という芸名は無個性に思えて残念だと思ったものだ。
 『君のシンデレラ』は初め地下アイドル以上、メジャーアイドル未満といったユニットだったけれど、siuとともに華やかに表舞台に登場した。siuはそれだけ圧倒的だった。モノが違うと誰だって思ったはずだ。
 その二年後、ほとんどsiuのいるグループと認知されていた『君のシンデレラ』は解散。siuは名実ともに一人でスターダムを駆け上がった。歌手として新曲をリリースし、女優として映画やドラマに出演する。歌や演技の技量は「アイドル出身にしては」と枕詞こそつくものの実力派の名声を得た。それなのに、インターネットのライブ配信では、自然体の普通の女の子の顔を見せる。そのギャップにファンは熱狂した。
 siuは時代の求めた完璧なアイドルだ。
 彼女を評価する際によく言われるのは「炎上を知らないアイドル」だった。デビューして今年で六年目。にもかかわらず、siuはスキャンダルとは無縁だった。
 男女関係にまつわるものはもちろんのこと、siuの発言や行動は細部に至るまで配慮に満ちていた。もちろん難癖がましいコメントが投稿されることはあるし、掲示板にはアンチスレが立ってる。けれど、大多数がそれを不当ないちゃもんだと認識する程度に、siuの地位は圧倒的だった。
 大学時代の同級生が、siuを「めちゃくちゃ賢いのにひけらかさないところがいいよね」と言ったことを覚えている。もちろん彼は私がsiuと友人同士だなんて知らない。
「めちゃくちゃ賢いし、計算してるんだろうなって思うけど……それでもいいかなって思うくらい完璧」
 私がなんと返したかは覚えていない。けれど、思い返してみればその同級生の言葉は半分正しくて、半分間違っている。
 天方紫雨という女は賢いが、計算なんてしていない。彼女は、本気で人の望む偶像であろうとしていただけなのだ。

  §

「それで、どうして紫雨が……殺されるのよ」
 車が夜の高速道路を滑り出してから尋ねる。逃げ道のないところでしか、訊けない気分だった。
「わからない。姉さんに連絡をしても返ってこなくて、部屋に行ったら父親が姉さんを殺してた」
 月晴は紫雨の個人的なマネージャーのようなことをしている。当然ながら所属している事務所はマネージャーを彼女につけていたが、それとは別にプライベートも含めた予定の管理を彼女は月晴に任せていた。
 紫雨と月晴は同じマンションの別の部屋をそれぞれ借りている。「姉弟なのに?」と尋ねると紫雨は当たり前だという風に答えた
「姉弟だけどもう成人してるんだし……。プライバシーとプライベートは必要でしょ?」
 それがどこまで本気だったのかはわからない。けれど、紫雨はかなり近しい弟とも一線は引いていた。おかげさまで、私が紫雨の部屋を訪れる時、いつも紫雨は一人だった。
「大方姉さんの居所を調べて、何かを要求して、争いになって殺したんだろう」
 何か。金品か、そうじゃないものか。紫雨が誰かを怒らせるというところが上手く想像ができない。
「なんで…逃したの?」
 月晴の口ぶりからは父親に情があったとは思えない。
「siuに、娘を殺すような父親がいていい訳がないだろ」
 こんなことになってから初めて─月晴の語調がほんの少し揺れた。横目で彼を窺ってみたが、暗い車内で表情はよく見えない。
「だから埋めるの?」
「そう。siuを完璧なシンデレラのまま永遠にするために」
 紫雨はどう見ても他殺だった。たとえ父親を逃したところで、警察に捜査されれば捕まるのは時間の問題だ。たとえ、父親が捕まらなかったとしても、紫雨が殺された事実は覆らない。
 しかし、遺体が見つからなければどうなるだろうか。
「明日と明後日の仕事をキャンセルした。体調不良だと言ってある。幸い、生放送の仕事はなかったから無理を通してスケジュールの調整ができた」
「その後は?」
「三日後、siuは失踪したことにする。アイドルとして日本中を魅了している最中に、siuは表舞台から姿を消す。警察には失踪として捜索してもらう」
 危うい橋だと思う。月晴は明後日まで紫雨が生きていたと証言するはずだ。そうすれば、今日起こった事実から警察の目を逸らさせることはできるかもしれない。それでもどこまで信じてもらえるかは賭けだ。
 私のところにもきっと警察は来るだろう。今日紫雨と会うことは、メッセージアプリを通してやり取りしていたから。
「防犯カメラは?」
「マンションの非常階段側の監視カメラはダミーなんだ。前にsiuの熱心なファンがトラブルを起こしかけたときに管理事務所から聞いた」
「何それ」
 とんだセキュリティである。
「非常階段は内側からしか開かないから優先度が正面のエントランスに比べると低いんだって。だからsiuが失踪するための道はある」
 この口ぶりだと父親も非常階段から逃したのだろう。
「わかった」
 私は短く答えた。月晴に協力するのなら、覚悟を決めなくてはならない。紫雨の遺体を埋める覚悟。彼女が今日この時点では生きていたと嘘をつく覚悟。紫雨を、永遠に生かすための覚悟だ。

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